【 razbliuto 】

孤独を愛せ、愛を貫け

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先に言うけど、めっちゃ長いし、くどい(最悪)

 

ツイッターにも書いた通り、2019年1月30日をもって退社してきました。どこにも所属してないって、なんか変な感じ。会社のことは最初から最後まで嫌いだった。けど、この会社でやろうと思ってたことや得ようと思ってたことは達成できたので、この3年が無駄だったとは一切思わない。思っていた以上に色々得るものがあったので、今後の人生に応用していく所存です。本当に辛かったので周りの人には沢山支えてもらったし、心配もかけたと思う。辞めろと何度も言われたけれど、今辞めたらただの逃げになってしまうという思いがどうしても離れなかった。若くて体力のある今のうちに無茶をすると決めていたのは自分だったので、納得できるまでどうにかやり切ったという感じ。けど多分これからも周りに迷惑と心配をかけながら突き進んでいく私のスタイルは変わらないと思うので、退社報告しながら「これからもいっぱい迷惑かけるからよろしく!」と伝えている。仕方ないなあと言ってくれる人ばかりで、嬉しかった。私は心底幸せなやつだ。

 

話は変わるが、ここ数日間で原発事故に関するルポルタージュを読んでいた。3.11福島第一原発の事故当時、実際原発内にいた方々のルポ。もうひとつは1999年に東海村で起きた臨界事故。被爆者の方の治療にあたられた医療チームのルポ。両方とも事故と呼ぶにはあまりにも深刻で、凄惨で、重大だと思った。とても、私が言葉にできるものではない。

と、いいつつ、少しだけ言葉にします。

言うまでもなく日本は唯一の被爆国であるにも関わらず、国内には数機の原子力発電所がある。そして世界でも類を見ない原子力に関する事故が起きている。私はある意味、この国と原子力というものは運命共同体な気がする。まあどこもそうかもしれないけどさ。特に3.11以降、原発廃絶の声が高まった。今でも街を歩けばよく署名を求められる。理由は本当に色々あるんだけれど、私には書けない。

前職中、原発に関する仕事をしておられた方数名に会う機会があった。その方たちは、日本が原発を推進しはじめた頃に現場におられた方が多く、みなさん口を揃えて言っていたのが「今はもうこんなことになっちゃったけど…」という言葉だった。悲しい顔をしていたのが、とても印象的だ。なんて返せばいいのか分からなかった。分からないながらも私は「たしかにあの事故がきっかけで悲しい思いをした人が沢山いたのは事実です。けれど、私は原発があったからこそ出来たことや、それに伴い笑顔になった人は沢山いると思っています。たとえこの先原発が無くなる時が来たとしても、貴方達の仕事はこの日本という国の歴史の中で間違いなく必要なものだったと、私は思います。」と話していた。「ありがとう」と言われながらも、私の稚拙な知識で語っていいことだとは思えなかった。私の率直な意見であることには変わらないけど、主語が大きすぎやしないか、ずっと悩んでいた。今も答えは見えていない。

2冊のルポを読んでみて、改めてその恐ろしさを感じた。東海村のルポは読んでいてとても辛かった。読んでいるだけで「痛い」のに、これを実際味わった大内さんは一体どれほどの激痛だっただろうか。ネットで検索すれば画像も出てくる。なかなか衝撃的なものだった。言葉を失う。これが現実に起きたということが何よりも恐ろしい。「被曝」といえば一言で済むけれど、その実態は想像をはるかに超えてきた。

福島の件については、自分の命よりも制御に尽力した方があれほど沢山いたことに胸が熱くなった。「格好いい」と思った。いくら社員だからって、「たまたま」その場に居合わせたに過ぎない。もし1日ずれていれば自分は現場に居合わせてすらいなかったかもしれない。たった1日、その場にいたから命を曝け出すことになった。にも関わらず、逃げず、泣き言も言わず、事故の最前線で戦った人の思いに触れることが出来た。私ならどうだろう。仕事だからといって、大切な家族を残して、職務にあたれるだろうか。「小さい娘がいるんです」「病気の父がいるんです」「「だから、帰らせてください」」。そう言わない可能性がないとは、とても思えない。それをやってのけた人たちが、あの日、あの場所に何人もいた。すごいことだと思った。ただただ敬服するしかない。同時に「仕事」というものの向き合い方について、改めて自分を振り返るきっかけにもなった。私が読んだ本は『死の淵を見た男』というタイトルで、2020年の夏には映画化もされるらしい。ちょうどその頃はオリンピックで大勢の外国人が日本に来ていることと思う。どうか、外国語字幕も作って、多くの訪日客に観て知ってほしいと思った。

事故発生後、「誰が悪い」とか「原発はやめろ」とかそういう議論が世間を飛び交った。けどルポを読んで私が思ったのは「誰も悪くないし、みんな悪い」と言うことだ。福島の件については、特に官邸や東電の対応についてバッシングが相次いだけれど、本を読んでみると「まあ仕方なかったのかな…」という気持ちになった。あの時その場所においては、誰もが全力で対応をしていた。ただあまりにも前代未聞の出来事であったために、歯車が上手く噛み合わなかったから、結果として対応が杜撰なようにみえた、ような気がする。(一部本当に杜撰なこともあったけど、一旦ここでは省略)。強いていうならば、対策を怠った国家の責任。安全対策について継続的かつ慎重な議論を行なってこなかった、関連企業、地域の住民、国民全員に対して何かしら非があると思う。だから、誰も悪くないし、みんな悪い。「悪い」という言い方は改めるべきか。原爆や東海村臨界事故を経験しておきながら、それでも私たちは「甘かった」んだと思う。起きる可能性が高い低いということではなくて、やはり常に最悪を想定しておかなければならない。そして、想定するための想像力を失ってはならない。

原発の是非に関しては、正直分からない。無ければいいと思う。けれど、現状なくすのはほとんど不可能だ。もし仮に無くなる日がくれば、その頃はきっと私たちは別の脅威の元に晒されているだろう。だから、是非を問うよりも、これらの事故で得た経験を必ず活かしていかなければいけないと思う。私たちはそこに注力すべきだ。もし同じことが、及び現在得ている情報から推定できる最悪の範囲の事故が再び起きた時、誰一人死なないように。悲しい思いをする人がいないように。そこに全精力をあげていく必要があるんだと思う。それが遺された人間の役目だと思った。

けど残念なことに私にはこういった資料を読んで考えることはできても、実際に何かを開発したり提言することは出来ない。だから何ができるかなって考えてみたのだけれど、そういった研究や開発をしている企業に投資するくらいしか思い浮かばなかった。あとこれは復興の観点だけど、被災地の物を買うこともなるべく心がけている。時々各地で開催されている東北市では、特に水産物は積極的に買うようにしている。といってもそんな大した額ではないので貢献してる気は全くないのだけれど…。他に出来ることがあったらどんどん教えてほしい。

最後に、現在進行形で災害をはじめとする様々なリスクと共存しながら日本中の原子力発電所および事業に関わる全ての人たちが、どうか生涯無事であってほしい。そのための研究や医療の進歩を願ってやまない。先日の1.17の復興ドラマに「作業員が被災者になってはいけない」という台詞があって印象的だった。無くてはならない、けれど危険度が高すぎるものを最前線で扱ってくださってる作業員の皆様が、どうか無事でありますように。どこに届くかも不明な祈りだけど、私は心から願っている。ご安全に。