【 razbliuto 】

孤独を愛せ、愛を貫け

85

「"向こうの世界"へ渡る手続きをする。お前は10月5日の夕方、12階建のビルの屋上から飛び降り、それが原因で死ぬ。悔いはないな?」
「……はい、ありません。」
まもなく僕は死ぬ。いや、もう死んだはずだけど、まさか死ぬ前にこんな関門を通ることになるとは思ってなかった。数年前に他界した祖母も通ったんだろうか。三途の川は聞いた事があるが、まさかこんなところがあったとは…。僕が今いるのは真っ白な空間で、目の前にあるのは巨大な門。そしてどこからともなく聞こえてくる声。少しだけ機械音っぽく聞こえるから、もしかしてこういう空間になったのはわりと最近のことなのかもしれない。人間社会が日々進化していくように死後の世界も進化していくとするならば、それはそれで面白いなと思った。


芦菜がいなくなってからの僕は、かろうじて心臓が動いているものの生きている実感がまるでなくなってしまった。それでも毎日会社に通い、仕事をこなし、同僚や友人と笑いあうようなこともあった。傍から見れば十分すぎるくらい幸せな人生だったと思う。それでも、どうしようもなく浮かんだ空虚は僕を結局そのまま飲み込んでしまった。僕はそれに抗えなかった。 
彼女と僕は同じ会社の同じフロアで働く同僚で、彼女のほうが1年先輩だった。彼女は容姿もさることながら、明るくハキハキした性格で、その上誰に対しても優しく、当たり前のように周囲から愛されていた。僕も配属された当初から彼女の評判は聞いていたし、僕自身もそんな彼女を尊敬していた。
彼女との距離が縮まるきっかけになったのは、一昨年の忘年会のあとだった。二次会の会場への移動中、酔っ払った上司が彼女に卑猥な言葉を浴びせており、近くでそれを見ていた僕はたまらず彼女の手を取ってその場を立ち去った。
「…ごめんね、茅野くん」
「え、なんで謝るんですか」
「だって、あの課長って茅野くんの課の人でしょう?私のせいで茅野君が目を付けられたりしないか心配で」
「気にしなくていいですよ、そんなの。僕もあいつのこと嫌いですし、嫌ってくれたほうがむしろ楽なんで」
「ふふふ、茅野くん面白いね。せっかくだし2人で少しだけ飲んでから帰らない?助けてもらったお礼に、ご馳走させてよ」
そう微笑む彼女に、僕が少しだけどきっとしたことは言うまでもない。


それ以来、僕と彼女は時々ふたりで会うようになった。食事をしたり、お洒落なバーに行ったり、彼女が行きたいという雑誌で話題のカフェに行ってみたり。いつの間にか僕は彼女に対して敬語を使わなくなり、「芦菜さん」から「芦菜」と呼ぶようになった。もちろん仕事中はただの先輩後輩として接していたので、敬称をつけていたし敬語も使っていた。それだけに、プライベートで一緒に居る時間が特別に感じられた。仕事終わりに誰にも見つからないように待ち合わせをして、夜の街へ繰り出す。秘密の共有がふたりの仲を繋ぎ止めると、前に読んだ本に書いてあったが本当だなと、ぼんやり思った。僕は、彼女のことが好きになっていた。


何度目かの食事の帰り道、僕は意を決して告白をした。いや、しようとした。
「ねえ、芦菜。聞いてほしいことがある」
「ん、なあに?私もね、茅野くんに聞いてほしいことがあったの」
「え、なんだろ。先に芦菜が言ってよ」
「んー、ほんとに?じゃあ、言うね」
そうして彼女は少しだけ息を深く吸った。
「茅野くん、私のこと、好き?」
まさにこれから言おうとしていたことを先に言われた僕は、思いがけない発言に一瞬固まってしまった。
「え…うん、好きだよ。ていうか今から告白しようとしてたから、参ったな」
「ううん、いいの。そうかなと思って、私から切り出した。意地悪してごめんね」
「ほんとだよまったく…。もうばれちゃったけど、芦菜、好きだ。僕と付き合ってほしい」
その言葉を最後に、僕と彼女の間に少しだけ空白の時間が生まれた。
「…私も茅野くんが好き」
「えっ…」
「でもね、だから付き合えない。ごめんなさい」
一瞬、言葉が理解できなかった。憧れの彼女が僕のことを好きでいてくれたということも、"だから"付き合えないということも。僕の脳内でばらばらに分解された彼女の言葉が再び構築されるまで、少し時間が必要だった。
「…ごめん。俺、芦菜に嫌われるようなこと何かしちゃってたのかな」
「そんなことないよ。優しくて面白くて男らしい茅野くんのこと、好きだよ」
「じゃあなんで?実は彼氏がいたとか?」
「まっさかー。私、そんなモテないよ」
不思議だ。振られてもなお、目の前にいる彼女の笑顔が愛おしい。けれど、次に彼女の口から出た言葉は、再び僕の脳みそを混乱させた。
「私ね、時々身体売ってるんだ」
「…え?」
「恋人でもない男の人と寝てるの。それで時々お金もらってる。薄汚くて最低でしょ?」
「それって、援助交際とかパパ活ってやつ?」
「うーん、そうなるのかな。でも、私はお金とか高級ブランドとか興味ないの」
「じゃあなんで…なんでそんな自分を傷付けるようなことするんだよ」
「…それはね、自分を傷つけたいからだよ」
「駄目だよ芦菜、そんなことしたら。自分を傷付けるのは、絶対駄目だ」
「ふふ、茅野くんならそう言ってくれると思った。ごめんね、ありがとう」
そういって彼女は微笑んだが、既に視線は僕のほうを向いていなかった。
「芦菜、俺はそのくらいのことで君を嫌いになったりしない。だけどその代わり、君のことを俺に守らせてほしい。君に、これ以上傷ついてほしくない」
本心だった。彼女の言葉は確かに衝撃的だったが、だからといって軽蔑するような気持ちは一切沸かなかった。彼女が恋人でもない男と簡単に寝るような人であっても、それでも僕は彼女が好きなままだった。
「聞いて、茅野くん。私はね、死にたくて自分を傷付けてるんじゃないの。生きたいから、そうしないと自分が駄目になっちゃいそうで怖いから、自分を傷付けてるの。こうするしかないんだよ」
「意味が分からない」
「そうだよね。それが普通の感覚だと思う。私がおかしいよ。だから、これ以上関わっちゃ駄目。ごめんね。今までありがとう。好きになってくれて、本当にありがとう。ごめんなさい」
そういって彼女はひとりで歩き出そうとしたが、たまらず僕はその腕を掴んだ。
「…茅野くん、離して」
「だめ、ひとりでは行かせない」
「いいから、離して」
「嫌だ」
「離して」
「嫌だ」
離すつもりはなかった。今離したら、きっと彼女に二度と会えなくなると思った。
「…好きでもない男の人と寝た後に飲む珈琲の味、知ってる?」
唐突だった。この人はどうしてこうも唐突な事を次から次へと話すんだろう。
「ごめん、分からない」
「どんな高級な珈琲でも、まるで泥水のような味になるの。変な話でしょう?」
そういいながら少しだけ悲しそうな顔で微笑む彼女は、相変わらず美しかった。
「自分を生かすために誰かに抱かれてるのに、その後飲む珈琲はすごくまずいの。おかしいと思わない?結局、誰も、何も救われないんだなって。そう思うと苦しくなって、また消えたくなって、同じことするの。ぐるぐるぐるぐる、堂々巡り。私ね、もう疲れちゃった」
僕はただ、彼女の話を静かに聞くしかなかった。
「初めて茅野くんと2人でご飯に行ったときのこと覚えてる?ほら、忘年会のあの時」
「うん、覚えてる」
「上司から助けてもらったとき、この人ならいいかなって思った。理屈じゃなくて直感だけどね、君のこといいなって思っちゃってさ。苦しくてどうしようもない人生だったけど、少しだけ君に甘えさせてもらおうかなと思った。けどそしたらね、だんだん自分が苦しくなっちゃったの。ほんと、つくづく私は最低な人間だと思うよ」
「苦しくなったって、どういうこと?」
「そのままの意味だよ。茅野くんといる時間が眩しくて、自分が許せなくなる」
「…分からないな」
「だよね。あなたのことはとても好きだと思うけど、私たちは分かり合えないって最初からなんとなく気づいてた。だから深入りする前に離れなきゃって思ってたんだけど、あまりにも居心地がいいものだから離れられなくて、結局今の今まできちゃった。ごめんね、ひどい女で、本当にごめん」
「謝らないで。居心地がいいならそれでいいじゃない、だめなの?」
「うん、駄目だよ。私はあなたを傷付ける。あなたには傷ついてほしくない」
彼女はそういって一歩踏み出し、両手を目いっぱい広げて空に向かってこう言った。
「あーあ、全部なくなっちゃえばいいのにな。きっとこういう訳の分からない感情抱えてるのって私だけじゃないじゃない。世界中の人たちの、こういうどうしようもない孤独感とかさ、空虚感とかさ、弱っちくてダメな部分とかさ、全部集めちゃって、爆発させてやりたいよ。そしたら何か変わるかな。茅野くんとも、ちゃんと幸せになれたのかな。ねえ、どう思う?」
そう言って振り返った彼女の目は、笑っていなかった。僕は何も言い返せなかった。


翌日から彼女は会社に来なくなった。同僚や上司が一人暮らしの家に電話しても、家族に電話しても、彼女と連絡がつくことはなかった。家族を通じて彼女の友達にも連絡がいったそうだが、その行方を知る人は誰もいなかった。事件性を考慮して3日目にはついに警察に捜索依頼も出したが、それでも見つからなかった。
そして、彼女が失踪してから半月後、彼女が既にこの世にいないことが確認された。遺体が見つかったのは東京から遠く離れた瀬戸内海が眺められる場所。彼女がどうしてその土地を選んだのか、誰も見当がつかなかった。ただ、彼女は死ぬ最期の瞬間に、瀬戸内の穏やかな海を眺めていたことだけは確かだった。


そしてその約1年後、僕はビルの屋上から飛び降りることになった。引き金となるような出来事があったわけではない。ただ、なんとなく、もう終わろうと思った。


「書類が書き終わったら、あとは署名して血印を押すだけだ」
もう心臓は動いていないはずなのに、なんで血は出るんだと一瞬思ったが、僕は大人しく指を噛み、出血させた。
「なにか言い残すことはないか」
言い残したい事…この期に及んで?
「言い残したい事はないけど、ひとつだけ聞きたいことがある」
「なんだ」
「僕は…僕は、どうすればよかったんだ。どうすれば、芦菜を救えた」
「人を救う?馬鹿を言え。人なんて誰にも救えないし、誰も救ってくれない」
どこからともなく聞こえてくる音声は、吐き捨てるように僕にそう告げた。
「人間なんてな、せいぜい自分ひとりしか救えない生き物なんだよ。そのためにクソみてえな毎日と戦って、負けそうになって、それでもみっともないくらい必死に生に縋ってしがみついて生きるんだろうが」
空間に響くその言葉に、僕は納得せざるを得なかった。そうか、僕は最初から芦菜を救うことは出来なかったんだ。そして僕は僕自身も救えなかった。ごめんな、生前の僕。ごめんね、芦菜…
「…なんか納得したよ、ありがとう」
「おう、他になにかあるか」
「もう無い。押すよ」


人生において、特別な幸福を望んでいたわけではなかった。ありきたりの、ごく普通の日常が平和に過ぎてゆく生活。僕が望んでいたのは、そんな人生だ。自殺することになるなんて、思ってもみなかった。僕の人生に意味はあったのだろうか。たったひとりの大切な人を失ったことが理由で、自分が死ぬ。大切な親も、友達も、同僚にも恵まれているというのに。みんなはこんな僕をどう思うんだろう。親不孝者の大馬鹿者だと思うのだろうか。それなら僕も同感だ。こんな終わり方をする人生なら、いっそ生きなければ良かったのだろうか。それとも、こんな僕でなければ芦菜のことを少しは救えたのだろうか。芦菜に、愛されることがあったのだろうか。
署名を書き、血印を押した。これで本当に終わるらしい。ああ、意識が遠のいてきた。意外とすぐ消えちゃうんだな。人生における、迷妄も、感傷も、愛憎も、暗闘も、空疎な自分も、全部終わり。羨望も、扇情も、抗争も、何もない世界に、僕はいく。そこに芦菜はいるだろうか。彼女は、僕のことをなんと言って迎えてくれるだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


後日、芦菜の遺品の中から1通の手紙が見つかった。


「茅野くんへ
 今までありがとう。そして本当にごめんなさい。
 もう誰からも愛されないと思っていた私を愛してくれたのは、あなただけでした。
 どうか、誰よりも幸せになってね。
 一緒に居られなくてごめんなさい。

 私を救ってくれてありがとう。愛しています」

 



 

 

 

 

pay tribute to メルシー(song by神様、僕は気づいてしまった)

PV:https://youtu.be/7rvUbF4DlFg