【 razbliuto 】

孤独を愛せ、愛を貫け

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追悼。

人間の争いというものは大体お互いの正義がぶつかった結果起きるものであるが、こんなにも理不尽な戦争が2022年の世界で起きることに驚きながらも、そこで失われゆく無関係の命たちに思いを馳せながら、しかし戦争は世界中でずっと起きてるけどなんでここだけこんなにピックアップされるんだそれってどうなんだと思いつつ、感染症で引き続き国内が大変なのにわざわざ渋谷ハチ公前という狭い場所に集まって反戦デモをする日本人を憂いながら傍観していたら、身近に不幸が起きた。その日は雲ひとつない青空が広がった、穏やかな日だった。2022年2月27日、祖父が亡くなった。享年96歳。

母方の祖父は私が生まれる前に亡くなっているものの、それ以外の祖父母は未だに健在。とはいっても全員が高齢もいいところなほどの高齢で、特に祖父は年々体力の衰えが見えていたのでその日が来るのも遠くはないだろうと思っていた。けれどまさか、こんなに早くその日がくるとは。3月の連休に帰ろうと、そこだけは予定を1つも入れていなかった。誰もが、春は迎えられるだろうと思っていた。もう少し暖かくなったらドライブにいこうと話していた。桜、見せたかったなあ。

その前日までショートステイに行っており、帰宅してから少し体調を崩していたらしい。血中酸素濃度が芳しくなかったのでとりあえず入院。すると少し数値が戻ったので、栄養のある点滴も打ちながらこのまま回復するだろうと思っていた。けれど容体が急変、そのまま旅立った。入院する前に祖母に「このまま家で死なせてくれ」と手を合わせて訴えたらしい。だから本人もなんとなく分かっていたんじゃないかと思う。その時の祖父母の様子は実際に見てはないが目に浮かぶ。本当にいたたまれない。結局入院の方向に舵を切ったのは、父をはじめとする子たちで、一応本人も納得の上で病院にいったらしい。そこから1日もたなかった。祖父は家が大好きだった。ショートステイもずっと嫌がっていたのだけれど、離れる時間を設けないと今度は祖母がやられてしまうという理由で渋々行ってもらっていた。だから家に早く帰りたかったんだろうね。もしあのまま助かっても、そもそも体調がだいぶ悪くなっていた祖父は病に苦しめられていただろう。祖母も体力的にも精神的にもさらに厳しい毎日が続くことになる。私が最後に会ったのは昨年11月。その時はまだ元気でいつも通り会話もできた。次に会うのは3月の連休を予定していたのだけれど、ベッドから動けくなってしまった祖父を目の当たりにしてショックを受けることを覚悟していた。結局そこまで弱った姿は見ていないので、私の中での祖父はいつまでも元気な頃のままだ。「おじいちゃんも頑張るからな、お前もがんばれ!」とまっすぐ目を見て話してくれる。その他、様々な事情を含めて、このタイミングでの別れはきっとよかったんだと思う。分かっているのに、涙がずっと止まらなかった。通夜もそこそこ泣いたが、告別式に至っては始まる前から終わるまでずっと泣いていた。泣き崩れなかっただけよく耐えたと思うくらいの大号泣。大人になってから人前でこれだけ泣くとは思わなかった。当たり前のように今までの人生に登場していた人と、この先何十年も会えなくなる悲しみは、想像よりもずっと量り知れなかった。

本人は行きたくなかったかもしれないけれど、入院してくれたおかげで子(父、叔父、叔母)が病院に駆けつけて最期を看取ることができた。昏睡状態になってからも半日ほど時間をくれたから、孫たちもすぐに動けた。みんなが集まれるように、本当の本当に最期まで頑張ってくれた。あと、恐らく徐々に低酸素状態になって亡くなっていったと思うので恐らく最期に痛い苦しい思いはしていないだろうとのこと。本当によかった。心停止したとき、祖母は自宅にいて、その連絡を受けてから家を出た。祖母が到着した時は心停止してからいくらか時間が経っていたのに、祖母が声を掛けたら一度戻ってきたらしい。人間は心臓が止まっても脳は生きている。特に耳は最後まで聞こえるから、心停止した人間には感謝の気持ちを沢山伝えてあげてほしいと何かで読んだことがあったが、本当にその通りだった。最期に祖母の声が聴けてよかった。祖父は本当に、祖母のことが大好きだったから。

眠る祖父の顔は本当に安らかで、やっと苦しみから解放された安心感がこちらにも伝わってくるようだった。あまりにも穏やかで、いつもみたいに「おじいちゃん、よ~寝たわ」と起きだすんじゃないかと思うくらいだった。向こうにたどり着くまでの間におなかが空かないように棺には大量の食べ物を入れて、向こうにたどり着いてから退屈しないようにみんなで手紙も書いて沢山入れた。お散歩したり、また大好きな農業が出来るように、靴とか帽子とかタオルとか作業着も入れた。私たちがそっちにいくまでの間、色んなことして元気に過ごしてくれたらいなと思う。

お葬式も、家族葬という名目だけどかなり部落の文化が残っているので結構な人数がきた。「自分は今までこの集落のために頑張ってきたから、コロナで家族だけしか来ないのは寂しいから絶対いや」と生前話してた。本当に沢山の人が来てくれたし、祖父の前で泣いていた。1年前だったらこうはいかなかっただろう。本当にしんどかったと思うけど1年頑張ってくれたおかげで、賑やかな会になった。

ガクッと弱り始めたのは本当にこの数か月で、それまではぴんぴんしていた。けれど土地の整理や農機具の整理を数年前から進めていた。徐々に体が悪くなって、とある機械を付けていたのだけれど、医師からはその機械をつけたらもって3年と言われていたらしい。3年以上、6年くらい、祖父は生きた。気になることも大体片付けられていたと思う。でも、どんな気持ちで機械をつける決意をしたのだろう。どんな気持ちで様々な整理をしていたのだろう。何十年もやってきた農機具を手放すとき、どんな気持ちだったんだろう。想像するだけでつらくなる。けれどそんな素振りを一切見せなかった。強い人だと思う。その強さすら、ここまで感じさせない人だった。

ところで命日となった2月27日は、ちょうど1年前亡くなった祖父の妹さんの誕生日だったらしい。孫から見ても分かるくらい、高齢になってからも本当に仲の良い兄妹だった。祖父が昏睡状態になってから、しきりになにかを掴もうと手を動かしていたそうだが、あれは妹さんの手を取ろうとしていたのかもしれない。だったら、あちらまで連れて行ってくれるのは妹さんだと思うから安心だね、とみんなで話していた。そうだったらいいなと、心から思う。

思い返せば出てくるのはひとつも忘れたくない楽しい思い出ばかり。けれど、後悔だってある。私がこれでもかというくらい泣いてしまったのは、後悔があったからだ。その悔いは、私が墓場まで持っていって向こうで直接謝ろう。どれだけしんどくても、下の世話は一切させなかった。家から一歩も出なくても、自力で着替える体力がなくなってしまってからも、ちゃんと寝間着と部屋着は分けていた。自分の祖父が、最期の最期までプライドと礼儀をきっちり守りきった格好良い人であることも、私は忘れたくない。

仏教の考え方では、人間として生きてるのは人間道に振り分けられたからで、そこが終わればまた仏様のもとに還る。だから死んだあとに辿りつく場所には亡くなった方々がいるわけで、さらに今回そこにおじいちゃんが加わったので、死に対する恐怖はなぜか薄れた。問題はきちんと仏様のもとに辿りつけるかどうかなので、引き続きちゃんと精進して生きいなければいけないなと思う。祖父はきっと辿り着けると思うし、私もちゃんと生きて辿り着くからという自戒も込めて、「さようなら」ではなく「またね」と伝えてきた。

式の最中のアナウンスでなにかの和歌が引用されていた。全文は忘れたけれど、「いたく、かなし」で締められる句だった。現代語訳すると「とても悲しい、痛いくらい悲しい」「とても愛おしい、痛いくらい愛おしい」のどれでもとれる。そしてその全てが当てはまる。また、亡くなった日を「命日」と呼ぶ。命の日、と書く。命は、死をもって完成されるという考えに基づくのだとしたら、本当に日本語は美しいと思った。

祖父は間違いなく立派な命を完成させた。本当に、永らくお疲れさまでした。向こうに辿り着いたら、たくさんの友達と晩酌でもしつつ、ゆっくり休んでほしい。