【 razbliuto 】

孤独を愛せ、愛を貫け

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インスタグラムを覗いてみる。主にリア友をフォローしているアカウントなので、中高大の友達の近況がよく流れてくる。20代後半にもなれば人生も様々だ。相変わらずバカみたいな体力と社会人になって得たお金パワーでとんでもなく遊んでる人、仕事を極めている人、趣味を楽しんでいたらなんかそちらの方面で伸びた人、学生の時から好きだと言っていたアイドルを今でも追いかけている人。そして、結婚して子供が生まれた人。

自分が欲しいかどうかはさておき、赤ちゃんや小さい子供は昔から好きだ。可愛いと思うし、人の子供でも成長を感じると嬉しい。なので、友人の子供がきゃっきゃしているストーリーを可愛いなあと思いながら眺めているのだが、そこで嫌でも気づいてしまうことがある。自分はあまり親から褒められずに育ったこと、そしてもっと褒めてもらいたかった気持ちがあること。

小さい頃から特別にとびぬけた人間ではなかったけれど、そこまで悪い人間でもなかった。小学校のテストはどの科目も80点以上がほとんどだった。もちろん苦手なところはあったけれど、勉強すればある程度は解けるようになっていた。それが普通だったので、満点のテストを持って帰っても「おー」。90点台のテストを持って帰ったら「惜しいなあ」くらいしか声をかけられた記憶がない。

中学高校になるにつれ、勉強の難易度は上がるし部活や予備校もあるので学校の課題に割ける時間は減る。それでも自分で計画を立てて着々とこなしていたので特に親の手を煩わせることはなかった。第一子がこれだったので、それが両親の子育てのスタンダード。

あんまりきゃぴきゃぴした子供ではなかったけれど、それにしても「可愛い」と言われた記憶なんて本当にない。大きくなって私が買ってきた服に対して「それ可愛いやん」と言われたことはあるけれど。

めちゃくちゃ褒められたこともなければ、めちゃくちゃ叱られたこともなかった。「100点じゃなければだめなんだ」という意識は幼いころから薄く、けれど着実に層を増していったように思う。それが現在の完璧主義に繋がる。

唯一めちゃくちゃ叱られた出来事がある。中学校の時うっすらいじめに遭っていたのだが、ある日耐えきれなくなり学校に行けなくなってしまった。朝、熱があるわけでもないのに「理由は言いたくないけど学校に行きたくない」と話すと、びっくりするほど怒られたのを今でも覚えている。未だに年に数回ネタにされる。何があったのか何も知らないくせに。知ろうともしなかったくせに。

色々あって、「愛着」というものについての知識を得る機会が大人になってから増えた。愛着に関する本を読んでいるうちに、まるで自分のことが書かれているようで怖かった。ただ、それが良い方向にも作用して、早い段階で自分のことを客観的に考えられるようになった。思考の癖や、それがどこから来るものなのかも分析して、ではその癖を治せるようにはどういう意識でいたらいいかというところまで自分で考えられたのは不幸中の幸いだったと思う。ただ、容姿にしろ中身にしろ、人から褒められても未だにそれを素直に受け止められない。例えば仕事のことでAさんから褒められても「褒めてもらえてうれしい」ではなく「Aさんの力になれたみたいでよかった」と捉えてしまう。自分に自信がないわけではない。なぜなら今まで自分の出来ないところを分析→それを克服というサイクルを繰り返してきたから。自己満足ではなくある程度結果も残してきた。けれど、すべて後付け。土台となる部分は、シロアリにかじられたような柱で出来ている自覚はある。だから時々根本からくる不安定さや不安に飲み込まれそうになる。

色々書いたが、別に親を恨んでいるわけではない。嫌いでもない。愛情が注がれていなかったとも思わない。悪い人だとも思わない。むしろ良い人だと思う。ただ、親が注いだ愛情が、私が一番ほしかったもの(そしておそらく未成年時代の私にとって一番大切だったもの)ではなかっただけだ。だから誰も悪くない。誰も悪くないから、辛い。いっそ、誰か超悪い人間がいてほしかったとすら思う。当たり前に、そんな存在は居ない方が幸せなのはわかっているのに。

夏が終わろうとしている。ツイッターのタイムラインでは「夏が終わるのが寂しい」という人がちらほら出てきた。その感覚がよく分からない。やっと秋が来る。やっと私が息をしやすい季節がやってくる。

 

私の生きづらさについて。